天草 コシキ瀬 裏  久々の釣行 

上村遼太君の献花にコンドームやタバコ 川崎中1殺人

ども!!ブログ凄くサボってた。

最近社会的に非常に胸が痛む事件が多発している。
タイトルの通り川崎中殺人事件。

事件を読み進めていくと犯人の実名も家族も出ていたようだ。







後は法の裁きを受けるだけだが遺族はいたたまれない。
私も家族をなくした事があり少しは理解で切るつもりだ。

以下自分なりの解釈。

少年法もあるけれど、殺人は大人扱いで裁いていいと私は思う。
むしろ、遺族には「やり返す」法があってもいいと思う。
今のネット社会だと「生命的制裁」を受けた場合その周辺が「社会的制裁」を受けることがとても多い。
ネットの環境が整っている証拠だと思う。

だが、必要以上に周辺人物を巻き込むのはよくないと考える。
犯人の彼女、家族などだ。
確かに犯人の家族が隣に引っ越して来たりを考えると鳥肌が立つ。
確かに殺人を犯した人間の家族だ
しかし人間である以上、個人に人権はある。人権を超えて非難できるのは親だけだと私は思う。

姉なども年齢は変わらないはずだ。
マスコミは

被害者を綺麗な情報で固め、加害者の粗を探し出す。 そっちが美談になるからだ。
それを国民に流すことを平気でやる。

姉含め家族などは少し見た目ヤンキーだが、もしかしたら、万が一、非常に優しい人間かもしれない。
今回の件で屈折したり、自殺を考えない訳がないくらい追い詰められている。
これはこれで「国民が殺した」ことにならないだろうかとおもう。

私が言いたいのは「最低限の教養を学ばせなかった」事が論点と課題と原因だと思っている。
少年殺人のニュースはどこまでが真実かは分からないが、どんなに立派なところの子供でも「親が親になるための勉強と環境を構築していない」からに他ならないと私は思う。

これだけ社会が多様化した時代は「我関せず」が蔓延している。
気づいた人間がどうして手を差し伸べづらい社会になったのだろう。

私も社会に出るまでこの社会は「大人のせい」だと思っていたが、いざ社会に出ると「自分の力で道を作る」事を知らされる。そこで考える、立ち止まることを学んだと思う。所詮人間は自分の手の届く範囲でしか人を幸せには出来ない。その範囲を広げる手伝いや教えは子供同士ではなく大人が道を切り開いてあげるべきだろう。「最近の子は分からん」と突っぱねる大人がいるが、そうではない。
子供の目線に合わせてなぜ話が出来ない。どうしてひとつの方向からしか人に伝えようとしない。
それは叱り、諭すではなくただの怒りとエゴだと思う。

被害者は中一くらいであればヤンキーに興味を持つのが普通だと私は思う。タバコもすってみたい、バイクにも乗りたい人より荒ぶりたい。これは健全な欲求だとおもう。
それを一度やって痛いこと熱いこと傷つけることを学ぶ「通例儀式」だったはずだが、頭の悪い育ちの良すぎる人間が「ダメ」の一点張りで法律を作り規則を作る。
なぜそのあとに駄目な理由を述べないのかが不思議でたまらない。
だから限度が分からない人間が育つ。
時代が変わったとよく言うが人が変わったからそれが時代になったと思う。

隣人に叱られる時代が来ることはもうない。 日本がこのまま「富裕心乏国」にならないことを願う。







そんなことを書き出してみたかった日記





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